
證空律師希望深事
藥師寺に證空律師と云僧ありあけり。よはゐたけて後
辭して久く成にけるを、彼寺の別當の闕に望申さんと
思はいかゞあるべきと云。弟子たるに同じさまに、あるまじき
事也。御年たけ給ひたり。つかさを辭し給へるに付ても必
覺す所あらんかしと人も心にくゝ思申たるを今更さや

うに望申給はゞ思はぬなる事にて人も心おとりつかまつるべ
しと理りを盡していみじういさめけるど更にげにと思へる
氣色なし。いかにもその心ざし深き事と見へければ、すべて
不及力。弟子寄合て此事を歎つゝ云樣、此上にはいかに
きこゆとも聞入らるまじ。いざ空夢を見て身もだえ給フば
かり語申さんとぞ定ける。日比へて後静なる時ひとりの
弟子云やう、過ぬる夜いと心得ぬ夢なん見へ侍つる。此
庭に色々なる鬼のをそろしげなるあまた出來て大なるかま
をぬり侍つるを、あやしく覺て問つれば鬼の云ク此坊主の
律師の料也と答ふるとなん見へつる。何事にかは深き罪

をはしまさん此事心得ず侍る也と語る即驚き恐れんと思
ほどに耳本までゑみ、まげて此所望の叶べきにこそ披露な
せられそとて、をがみければ、すべて云ばかりなくてやみに
けり。智者なれば此律師までものぼりけめ。年七十に
て此夢を悦けん、いと心うき貪欲のふかさなりかし。
かの無智の翁が獨覺のさとりを得たりけんには、たとへ
もなくこそ。
※證空 不詳。